SICF(Spiral Independent Creators Festival)は、同じ建物で、スパイラルホール(3階)でアート作品を展示し、スパイラルガーデン(1階)ではパフォーマンスが行われている。後者の名称には「PLAY」とあるが、5月4日に上演されたものはダンス作品が多く、他は演劇と落語。1作品10分。
5月4日は、最初のasamicroさんの作品だけ見逃した。ラストシーンだけ見たが、面白そうだったので見たかった。
それぞれのパフォーマンスのクオリティーの差は結構大きかった。人に見せる作品を作るのがどんなに大変かが分かる。しかし、クオリティーがどうであれ、生身の人間が目の前で何かをしているのだから、何かしら感じるところはある。
5月5日は見に行けず残念だが、最後から2番目のCo. Ruri Mitoの作品が見たかった!
以下、5月4日のダンス作品の中から良かったものを記す。なお、演劇の狐野トシノリさんの作品は、あまりちゃんと見ていなかったのだが、最後のどんでん返しがなかなか面白かった。
ちなみに、会場では各作品の作品名やコンセプトが1つずつ液晶画面で提示されていたが、椅子に座って鑑賞していると見えない位置にあるため、ほぼ見られなかった。座席から見える位置に置いたり、簡単な印刷でいいので紙で配るなどしてほしい。その方がインターネットでの「拡散」もしてもらいやすいかも。
■酒井直之
ブルーシートを敷き、その上で服を脱いで下着1枚になり、座って体を白く塗り始めた。とくれば、舞踏だ。顔、髪の毛、体の一部を白く塗ると、ブルーシートから出て四つん這いで歩き出した。人ではない。動物。四足の動かし方や頭の振り方もうまく動物になっている。最後はブルーシートの上で服を着て人間に戻って、終わり。
ダンサーとして均整の取れた体つきで、舞踏ダンサーによく見られるように髪の毛を剃ってはいない(均整の取れた体つきの舞踏ダンサーももちろんいるが)。「これが舞踏」というのをお手本のようにして見せた感じ。調べてみたら、酒井直之さんは「Co.山田うん」と「まだこばやし」のダンサーだった。日本の舞踏を身体で味わってみたという作品だろうか。
この後、他にも「動物」を扱った作品が複数見られた。現代日本では身体が薄っぺらくなってしまって、動物にでもならないと濃い身体性を表せない、といったことがあるのか、それとも単に動物から人間の本質が見えてくるということがあるのだろうか。
■伊藤まこと、甲斐ひろな
甲斐ひろなさんは、「横浜ダンスコレクション2019 コンペティションII」のファイナリスト選出作品である「プリティ・ヴェイカント」を「セッションハウス・アワード2019 ダンス花 vol. 30」で見ていたので、期待していた。期待通り、今回の作品も興味深かった。
甲斐さんが、腰を曲げ両腕をだらんと垂らして犬のような格好をしている伊藤さんを小脇に抱えるようにして登場。犬はなでなでされている。しかし、動きながら次の瞬間に今度は甲斐さんが犬、伊藤さんが飼い主のようになっている。その後も2人の役割がどんどん入れ替わる。入れ替わるときの動きは多様でよく工夫されている。「ワン」といった声も発する。
時に他者を飼い慣らし時に飼い慣らされる、せわしなく世知辛い人間界の縮図のようだ。2人は観客に拍手を求め、拍手をした観客たちが2人を賞賛するような形になる。手を挙げて喜び、尾を振って喜ぶ。おべっか使いが束の間、褒められているよう。人の目を気にして振る舞う。人間のプラスの感情を受け取ってプラスの感情を与える犬の方が、人間よりも自由でまっとうなのかもしれない。
2人で絡み合って動く場面など、ダンステクニックも高度。意外性が髄所にある動きで、飽きさせない。
風刺が効いていながらユーモラス。今後、この持ち味を生かした作品も、別の持ち味を披露する作品も、見てみたい。
Optoの公演「optofile_touch」で上演されたクリスタル・パイト振付の「The Other You」を少し連想した。
■中屋敷 南
かわいらしいウサギの格好で歌いながら現れ、童謡のような物語に乗って指人形芝居のようなことをする。でもかわいいだけでは終わらないのだろうなと思っていたら、期待以上のノリで「ぶっ飛んだ」。予期していたとはいえ意表を突かれた。
かわいらしく(でも最初からどこか不気味だった)していたときも、怒りをエネルギーとするかのように激しく動き出してからも、ダンサーとしての確かな腕(体?)を感じた。音の取り方もうまい。
最後は数人の観客を巻き込んで、盆踊りをし、「チーン」と手を合わせる。ウサギさんを成仏させる(仏教では動物も成仏するのかは知らないが)ための儀式らしい。
変だが好きだ。面白かった。でも情念みたいなものがちょっと怖かった。
■デルトーカ
本人たちのウェブサイトを見たら、「あなたのせいで死ねない/Can't Die Becaouse of You」という作品であったらしい。せりふもあり、メインはダンスだと思うが演劇的要素もある作品。同ウェブサイトによると、パフォーマーのメンバーは、南雲麻衣さん、中村理さん、佐藤郁さん。出演はしていないが、ビデオアーティスト・ドラマトゥルクとして中瀬俊介さん。
南雲さんが上を見る。音響で雨音がする。ちなみに会場は屋内だが天井が高く、天井はガラス張りで空が見える。佐藤さんが入ってきて、雨に打たれているような動きをする。会場を半円状に囲むスロープを、傘を差した中村さんが歩いて降りてくる。
中村さんは会場に着くと、傘を投げ出し、マイクを手に取って、「この音が聞こえますか?雨音にすぎないのに、彼女たちは本当に雨が降っていると思っているんですよ。音にすぎませんが、音が体に影響しますからね」というようなことを観客に語りかける。次に、佐藤さんがマイクを手にして、「あの人は自分の言葉のように話しているけど、実はせりふなんですよ」というようなことを、手話をしながら言う。その間も、中村さんはさっきのせりふを話し続けている。
この間ずっと動いて踊っていた南雲さんが、動きを止めて観客に向かい、「この声が聞こえますか?」と言う。大きなはっきりとした声で、何を言っているかは明瞭に聞き取れたが、発声の仕方から、耳の聞こえない人なんだと分かる。「私は自分の声すら聞こえません」と続けて言ったので、やはりそうなんだと分かる。
それまで、観客である私たちは、南雲さんが「音に合わせて」踊っていると思っていたのに、そうではなかったのだ。生演奏ではないからそんなはずはないのだが、音が動きに合わせていたのかなどと一瞬思えて、しかし、聞こえない人が音に動きを合わせる手段はいろいろ考えられるし、もしかしたら、音に合わせてなどいなかったのに、音を聞き、動きを見ている私たちが勝手に動きを音に結び付けていたのかもしれない。
私たちは、よくこうして物事を別の物事に短絡的に結び付けてしまう。「音に合わせて踊っているように見えたら(本当は見ている人がそう見ているにすぎないのに)、そのダンサーは耳が聞こえるだろう」と思い込み、「耳が聞こえ目が見える人がダンスや演劇をやるだろう」と思い込む。私は最近、南村千里さんの「光の音:影の音―耳だけで聞くものなのか―」というダンス公演を見たのに、佐藤さんが声で話しながら手話をしているのを見たとき、「音の話だから手話もしている?」と思っただけで、3人目のダンサーである南雲さんが、耳が聞こえないとは全く想像もしなかったのだ。
このように、自分の浅はかさに気付かせてくれて、世界の見え方を少し変えてくれる作品、今回なら、音の聞こえ方、音と動きの関係を見つめ直させてくれる作品は、ショックを受けながらも、出合って良かったと思う。
帰り道で、手話で話している人たちが目に入ってきた。出掛けるときにしょっちゅう目にするわけではないのに、偶然か、それとも私の感覚がそちらに開いていたせいか。しかし、「耳が聞こえない=手話」という発想もまた、短絡的で一元的な結び付け方にすぎないだろう。
誰のことも決めつけないように常に気付き続けたいと思うし、私も、誰にも決めつけられたくはない。そのためには、表現し合い、耳だけでなく体を澄ませることが大切だ。
デルトーカの皆さんに最後、手話の拍手をしようとしたのだが、躊躇している間に退場してしまった。これからは躊躇せず行動したい。
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