「あいちトリエンナーレ2016~虹のキャラバンサライ 創造する人間の旅」で初演された作品の再演。
TPAM2019参加作品。
TPAM2019のサイトには、「700年以上の時を超えて愛知県奥三河に息づく重要無形民俗文化財『花祭』をモチーフにあいちトリエンナーレ2016にて創作初演した『いきのね』。土間舞台で繰り広げられる、16名のダンサーによる土着性にみちたステージ。」とある。
公演パンフレットによると、「いきのね」は「命」のことらしい。
開演前、客席では、ほら貝(?)を吹く人が横切っていった。始まりの合図だろう。「花祭(はなまつり)」もそのようにして始まるのだろうか?
暗くなり、舞台の中央にぼんやりと光が浮かび、赤い姿が浮かび上がる。赤鬼だ。長い触手のようなものが幾つもあり、たこ怪物のようにも見える。結構怖い。
この後のシーンでは、魂を思わせる灯りを手に持ったダンサーたちがよくぞそんなにと思えるほどゆっくりと舞台を横切っていく。動きを止めると1人ずつ灯りに息を吹きかけて消す。ろうそくのような匂いがしたので、本物のろうそくだろうか?1人だけ舞台の端に消える。神に捧げる生贄か?と思ったが、「花祭」のことを知らないので、何とも分からない(おそらく違うだろう)。
腹の底に響くような音楽は素晴らしいし、重心を低くして四股を踏むような動きや獣のような動きをする振付と、それを踊るダンサーたちには、確かな力量がある。群舞の力強さも感じる。ダンサーの動きが時に少し鈍いようにも思えたが。
しかし、このダンスは、きれいな劇場ではなく屋外で見た方がいいのではないかと思い、また、「オマージュ」の源の「花祭」のほうを見たいとも思った。
群舞としての迫力はあると思うし、周囲の観客が感動していたのも分かる。それなのに、うまく入り込めなかった自分がいる。「花祭」を全く知らずに見たのもよくなかったのかもしれないが、それは関係ないかもしれない。
本公演の音楽や踊りからも、「土着性」という言葉からも、モーリス・ベジャールの「春の祭典」と「ボレロ」を連想した。しかし、ベジャールの両作品では、「集団」「群衆」への批判性が群舞に表れていると思う。だが、「いきのね」の群舞は、「良きもの」として提示されていたように思えた。もしかしたら、私が何か重要な要素を見落としていてそう思ってしまったのかもしれないが。
「伝統的な神事」を「題材」に、力強いコンテンポラリーダンスを創作する。何も問題はないはずだが、どこか、ただ「そのまま(それだけ)」のような気もしてしまって、素直に「感動」できなかった。
日本の伝統芸能に対する私の無知や、自国の文化に対する私の屈折した思いなどが絡んでいるせいで、このように思ってしまったのかもしれない。だから、Co.山田うんの他の作品も見てみたいし、「いきのね」がまた再演されることがあれば再挑戦したいとも思う。力とエネルギー(熱量)があるカンパニーであることは確かだから。
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【振付・演出】山田うん
【音楽】ヲノサトル
【出演】飯森沙百合 伊藤知奈美 川合ロン 河内優太郎 木原浩太 小山まさし 酒井直之 城俊彦 西田祥子 西山友貴 長谷川暢 広末知沙 三田瑶子 山口将太朗 山崎眞結 山下彩子
【リハーサルディレクター】Niv Marinberg
【衣装】池田木綿子(Luna Luz)
【舞台美術】大津英輔(+鴉屋)
【照明】藤田雅彦
【音響】江澤千香子
【舞台監督】原口佳子(モリブデン)
【宣伝美術】永野ヒロコ(ZAWAME)
【制作】上原聴子(Iigiri)
2019年02月16日(土)~2019年02月17日(日)
一、赤鬼:悪霊を祓う山の神
二、鬼火:人間や動物の死体から現れた魂
三、息壌:土の怪物
四、源流:天竜川水系
五、青鬼:人を祝福する山の神
六、舞庭:市ノ舞、三ッ舞、四ツ舞、楽の舞、湯囃へのオマージュ
七、禊祓:舞い手、観衆の心身を清める
八、鎮め:四人が手印を組み祭りに集った神々の心を鎮め元の場所へ返し手印を組んだ人が神性を持つ
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※下記画像は下記サイトより。
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