「シネマの再創造・パフォーマンス」として、映画監督でパフォーマンスも行う七里圭氏が、アクター(俳優)の安藤朋子氏と、振付家・ダンサーでBATIKを主宰する黒田育世氏を出演者に迎えて、舞台に初挑戦した。
安藤氏は、動物園で清掃員として働いているらしい高齢女性の役。母一人子一人で育ったか、または父親がいてもほぼ不在の状態だったらしい。黒田氏が演じる母の呪縛は強かったようで、死んだはずの母が若いころの姿で現れる。ブラシで床をゴシゴシこすり続け、最後に「母の死は娘の死。娘は新しい私になる」というようなことをつぶやく。
「母の呪縛(からの解放)」というテーマは、世の中のさまざまな作品にみられる。私が真っ先に思い浮かべるのは、漫画家の山岸凉子氏の作品だ。「清掃する女」では、母の姿は幻影、亡霊のようで、娘の想像の中に存在しているように思える。しかし、想像だとしても確かに「存在」している。
舞台上の3分の2くらいのスペースを囲むように設置してあったのは、黒い板のような垂れ幕のようなものかと思っていたら、真っ暗なときにそう見えていただけで、実はスクリーンのようなもので、そこに映像が映し出され、向こう側が透けて見えるという演出だった。上手の3分の1くらいのスペースにはそのスクリーンがかかっておらず、剥き出しになっている。だが、そのスペースに演者が登場することは少なく、パフォーマンスの大部分はスクリーンの向こうで行われた。そのため、演者たちは薄ぼんやりとした存在に見える。
安藤氏はマイクを装着した状態でせりふを言うが、そのほかに、録音のせりふが流れたり、録音と生のせりふがずれて重なったりし、歌唱のさとうじゅんこ氏も歌というよりせりふのように言葉を言うところがあった。その言葉は日本語だが、古風な言い回しも含まれていたのか、あまり聞き取れない箇所もあった。さとう氏は小さな打楽器のようなものも使って音を奏で、演奏のGO ARAI氏は弦楽器のようなものを弾いていた(2人が開演直前に楽器などを準備しているとき、墨のような匂いがした)。
さとう氏の声が伸びやかで、美しい声も少し耳障りな声も幅広く出していて、すごかったが、本作品のホラーのような不気味さに一役買っていた。最も不気味で怖かったのは黒田氏で、客席の通路を歩いてくる登場シーンでは、気配を完全に消していたので、すごく近くに来るか視界に入るまで気付かず、ぎょっとした。黒田氏が笑顔で穏やかに話すところを見たことがなかったとしたら、もっと恐ろしく思っただろう。黒田氏の表情が壮絶で、体の緊張、こわばりも見えた。一番遠い席からでも演者の顔が分かる、狭い小劇場ならではの踊りだろう。
60分の上演の後、30分のアフタートークが行われた。最終日のトークは、演出の七里圭氏と、ゲストの岡室美奈子氏(早稲田大学文学学術院教授)による。本作品とサミュエル・ベケットの戯曲には「不在」が共通のテーマとしてあることや、初期の映画と最近の映画に通じる「未完成」な性質、完全・完成し過ぎているものはつまらなくて、少しくらい失敗があると、その人らしさが見えてうれしくなる、などのお話があった。
撮影しておいた映像とリアルタイムの映像の両方を使っていたのだろうか、そうした映像と録音や生のせりふの組み合わせ方、映像の向こう側で演者が動くという不思議な画、どこから響いてくるのか分からなくなるような楽器の音と歌の声、わずかな動作、繰り返しの動作とせりふだけで長年続けてきた人生の重みを醸し出す演技に、本当にあの世から現れたかのような存在としての踊りなど、感嘆する要素がいろいろあった。しかし、うまいことそれらが一体となって、作品に感銘を受けるということはなかったように思う。映画、映像、音楽(歌と楽器演奏)、演劇、ダンスを全て入れて1つの舞台にする可能性は見せてもらえたので、今後の挑戦も楽しみにしたい。
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2019/9/2(月)~9/8(日)
早稲田小劇場どらま館
構成・演出:七里圭
出演・振付:安藤朋子(ARICA)、黒田育世(BATIK)
歌唱:さとうじゅんこ
演奏:GO ARAI
テキスト:新柵未成、七里圭
当日:4000円
前売:3500円
学生:2500円
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