捩子ぴじん etc.「音で観るダンスのワークインプログレス final」KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ

視覚に障がいがある人のために映画などで使われる「音声ガイド」を、ダンスで行うとどうなるか、というプロジェクト。2017年から始まり、3年目を迎えた今回、「final」として、これまでの試みの発表や、今年の作品の発表と、関係者などのトークが行われた。計3時間。

このプロジェクトの企画者でキュレーターの田中みゆき氏が話していたように、このプロジェクトは、目が見える人にとっても、自分は一体ダンスの何を「見て」いるのか、感じているのかを、改めて考えるきっかけになる。目が見えていて、(矯正)視力が同じくらいであっても、あるダンスを見るとき、各自がきっと異なるものを見ているのだろう。見たもの、聞いたもの、感じたものを言葉に表してみても、それだけでは伝え切ることはできないし、その言葉を聞いた他の人は「私の見方は違う」と思うだろう。ダンスの印象を絵に描いても、写真に撮った場合でさえも、写真には撮影者の視点が入るから、他の人はその写真を見て「違う」と思うだろう。そう考えると、芸術や人間はとてつもなく面白い。どこまでいっても違うのに、伝え合おうとするところも面白い。


3時間の「final」の前には、30分ほどの「タッチツアー」が行われた。捩子ぴじん氏と、視覚障がい者と晴眼者の参加者とが、目隠し鬼と、目の見えない状態で捩子氏の動きをまねてみるというエクササイズを行った。

目隠し鬼は、全盲の人以外は目隠しを着けて、鬼につかまれたら、外に出る。動ける空間をだんだん狭くして行った。人の気配や音を感じて、追ったり逃げたりすることになる。

捩子氏の念頭には、研究者の伊藤亜紗氏が著書『どもる体』で書いていた、アーティストの高嶺格氏の、どもりは言葉より前に体が出る状態、という言葉があったという。

見えない状態で捩子氏の動きをまねてみるエクササイズでは、捩子氏は足を踏み鳴らしたり、両足で跳ねたり、全身で倒れたり、床を手でなでたり、床で足を擦ったり、深呼吸したりしていた。それを参加者がどう受け取ってどう動くかはさまざまで、それがいい、というエクササイズ。

捩子氏は、ダンスを見るときに自分も動いているような感覚になるそうで、それも一つのダンスの見方であるという認識を持って、このエクササイズや、今年のプロジェクトに取り組んだらしい。


「音で観るダンスのワークインプログレスfinal」の構成は、次の通り。


1. 過去2年間の音声ガイドを使ったダンス上演(20分)

2. トーク:プロジェクトのこれまでの気付き(40分)

3. 音で観るダンス上演(20分)

4. トーク:なぜ音で観るダンスなのか(40分)

5. 感想共有、Q&A(20分)


1.と3.はそれぞれ、捩子氏が10分の同じダンスを2回踊る。1回目は照明がついた状態、2回目は照明を消した真っ暗な状態で。

1.は、受信機を使って、4種類の音声ガイドから聞きたいものを選んで聞く。3.では、スピーカーから流れる1種類の音声ガイドをみんなで聞くスタイル。


1.の音声ガイドは、次の通り。


チャンネル1:テキスト 捩子ぴじん、朗読 安藤朋子

チャンネル2:テキスト 本プロジェクト研究会、朗読 加藤和也(FAIFAI)

チャンネル3:テキスト 岡田利規(演劇作家、小説家)、朗読 川﨑麻里子(女優)

チャンネル4:テキスト・朗読 志人(語り部)


今回のテキストと朗読、トーク出演者は次の通り。


ダンス出演:捩子ぴじん(ダンサー)

テキスト:大崎清夏(詩人)

朗読:山下残(ダンサー)

トーク出演:捩子ぴじん、大崎清夏、細馬宏通(早稲田大学文学学術院文化構想学部教授)、田中みゆき(キュレーター、本プロジェクト企画)

モデレーター:萩原雄太(演出家、かもめマシーン主宰)


3年間の本プロジェクトについては、ウェブサイトに詳しくまとめられている。

▼「音で観るダンス」プロジェクトのウェブサイト↓


■1. 過去2年間の音声ガイドを使ったダンス上演(20分)

左耳だけイヤホンを着けて、音声ガイドを聞く。捩子ぴじん氏のダンスは、舞踏が基本にある。暗闇の水や砂から生まれ出た生物が震え、徐々に体ができていって動き出し、活発に運動してから、疲れて寝に戻るか、水や砂に収束していくような感じ。

私は晴眼者で、照明が消えて暗闇の中で「ダンスを鑑賞する」ときには、集中するのが少し難しいと感じた。暗くなると、体が休みモードに入るのか、眠くなってしまうのだ。もちろん、それは劇場という安全な空間で座っているからこその現象で、真っ暗闇の外を歩いているときには、逆に感覚を研ぎ澄まそうとするだろうが、そのような状況でなければ、暗闇は眠っておいいという合図だと体が認識するのかもしれない。全盲の人は常に暗闇の状態だから、起きているときと眠っているときの違いは、別のところで区別をつけているのかと思うが、そんなこともこれまであまり考えたことがなかった。

チャンネル1は、捩子ぴじん氏のダンサーとしての思考が垣間見られて(聞こえて)面白い。チャンネル2は、プロジェクト研究会による客観的な描写のテキストで、ダンスを目で見ながら聞いてしまうと邪魔になってしまうし、暗闇の中でダンスが見えない状態で聞いても、言葉から動きを想像するのに労力を使い、頭が疲れてしまう。チャンネル3の岡田利規氏のテキストは、さすが劇作家だけあって、岡田氏個人としての視点を設定して発している言葉がいちいち面白く、吹き出してしまうこともある。チャンネル4の、語り部の志人氏のテキストと語りは、語りだけで物語になっているので、捩子氏のダンスに触発されてできた物語ではあるのだろうが、もはやダンスなしで成り立つ語りになっている。

▼捩子ぴじん氏のダンスについてのインタビュー↓

▼捩子ぴじん氏が出演した、南村千里「光の音:影の音―耳だけで聞くものなのか―」について↓


■2. トーク:プロジェクトのこれまでの気付き(40分)

本プロジェクトの企画者のキュレーター、田中みゆき氏:「2016年に目の見えない人とダンスを作る企画を行い、そのために盲学校のダンスの授業を見学して、体操で『手を上げる』という言葉から生徒がそれぞれ解釈して好きなように手を上げていたのを見た。また、映画の音声ガイドの講座に参加して、参加者たちが同じ映像を見ていても説明の仕方が全く異なるのを体験した。この2つのことがきっかけで、本プロジェクト『音で観るダンス』を企画した。コンテンポラリーダンスを選んだのは、目が見えていても『よく分からない』という感想を持つことも多いものだから。どんな音声ガイドを作れるかを試みることで、ダンスの見方についても考えられると思った」

映画の音声ガイドの例として、ドキュメンタリー映画『ナイトクルージング』(佐々木誠監督)の冒頭を少しスクリーンで視聴した。

▼映画『ナイトクルージング』のウェブサイト↓

「ダンスを言葉で表すのは不可能だが、その不可能にあえて挑戦する。ダンスを見るとき、私たちは何を見ているのか?イメージは視覚だけから想起しているのか?といったことを踏まえて、他者と自分の『視点』を共有する試みとして、プロジェクトは、ワークショップやセッション、研究会、タッチツアー、上演とトークという4つの要素で構成した」

「1年目の2017年は、イギリスの事例をルイーズ・フライヤー氏とゾーイ・パーティントン氏から聞いた。スポーツ中継で体を言葉でどう表すかという話も聞いた。踊るチームと音声ガイドを作るチームに分かれて活動。踊るチームでは、捩子さんの体を触ったり言葉で説明したりすることで、動きを伝えた。音声ガイドは、3種類を作った。音声ガイドを作ってみて、ダンスを忠実に言葉にするのは難しく、また、そうする意味があるのか、という疑問が出た。説明と暗喩、沈黙のバランスも考えなくてはいけない。テキストを書く人とそれを読み上げる人との間にもずれが生じる。どんな音声ガイドを好むかは、視覚の違いにはあまり左右されないことが分かった。ただ、中途失明の人については、ダンスで何が起こっているのかを知りたいという欲求が働く傾向はあった」

「2年目の2018年は、聞こえない人はどう見るか、見えない人はどう聞くか、ということにも注目した。スポーツの臨場感のある実況解説では、解説者がプレーヤーの気持ちになるという話もヒントになった。捩子氏のダンスの振付は前年に完成していたので、2年目はそのダンス映像を使いながらガイドを作成した。ゲストとしてダンサーの木村覚氏と神村恵氏、バリアフリー活弁士の壇鼓太郎(だんこたろう)氏を迎えて意見を聞いたところ、『客観的なだけでは楽しくない』という話があった。そこで、擬音や水の音なども取り入れた。音声ガイドは、劇作家の岡田利規氏による演劇のト書きのようなものや、語り部の志人氏によるリズムに特化したものなどを作成した。気付きとしては、動きの正確な理解よりもイメージのしやすさが大切ということ、脳が処理できる情報量には限りがあり、比喩や擬音を取り入れることが有効な場合もあること、リズム感やグルーヴ感も大切であること、音声ガイドだけで足りない部分を水の音などで表現する方法もあり得ること、などがあった」

ここで、先ほど行われたタッチツアーについてのお話があった。

それから、これまでの気付きとして、下記のことが挙げられた。

・生のダンスから伝わる情報量の多さ

・音声ガイドという捉え方だと、ダンスの補助的なものになってしまう

・想像を喚起する方法の多様性

・体と声という、2つの身体を扱うこと。ダンサーの体よりも、音声ガイドの声を発している身体の方が強く伝わってしまうこともあった

・体は耳以外で聞き、目以外で見ている

・情報よりも体験をしていこう

捩子氏:「振付は、動きと音声とで伝わるようなものにし、音声ガイドを付けることを意識して振り付けた。普段のダンスではやらない複雑な手の動きも入れた。笑顔など表情も付けた。聾者であるダンサー・振付家の南村千里さんの作品に出演して、聾の人は体験そのものが違っていることに気付いた。だから、体験を重視したい。1年目に、音声ガイドを聞かない選択をした人もいたが、それもいい。その場で起こっていることを感じたい」

▼捩子ぴじん氏が出演した、南村千里「光の音:影の音―耳だけで聞くものなのか―」について↓

早稲田大学文学学術院文化構想学部教授の細馬宏通氏:「動きの解析ソフトで、日常の動きなどの解析を研究で行っている。今回の音声ガイドで、捩子氏の動きと、音声ガイドで言葉を言うタイミングが気になった。あるソフトを使えば、そのタイミングが目で見て分かり、音声を再生することもできる。同じテキストでも、読む人によってタイミングが違う。読む人の捉え方によって、タイミングが異なってくる。違っていて、いい」

「音声ガイドには別個の身体がある。音声ガイド自体がパフォーマンス。語り部の志人氏がやっているのはまさにパフォーマンス。動きのスピードを言葉のリズムで表現している」

「岡田氏のテキストに、『私、今、話し過ぎているんですけど』とあって、ガイド中に反省してしまっている(笑)。それなら黙れよって思うんだけど、黙らずにあえて言うことで、音声と動きのずれが感じ取れる。そういうパフォーマンスになっている」

「五感マイナス視覚、なのではない」

田中氏:「1年目の音声ガイドは好評だったが、2年目は不評だったのは、情報過多だったせいだと思う。音声ガイドが語り過ぎると、ダンスが要らなくなってしまう。観客の耳を酷使させてはいけないし、聴覚に視覚の互換をさせるのではないということだ」


■3. 音で観るダンス上演(20分)

今年の音声ガイド付きのダンス作品が発表された。

観客が客席からダンサーがいる場所へ移動して、踊るスペースの四方を囲んで座って鑑賞した(床に座るのが難しい人は1列目の客席に座った)。1回目は照明をつけて、2回目は照明なしでダンスが行われ、いずれでもスピーカーから流れる1種類の音声ガイドを(ダンサーも含めて)みんな一緒に聞いた。

ダンサーが踊っている床に座って鑑賞することで、ダンサーの体の振動や立てる音が震えとして自分の体に伝わってくる。暗闇の中では、ダンサーの呼吸や息遣いがよく聞こえてくると感じた。暗闇で目が見えない分、音に集中したせいだろう。

詩人の大崎清夏氏によるテキストは、1、2年目の音声ガイドの言葉も少し取り込みながら、まさに「ダンスの詩」のようになっている。ダンスから想起されるイメージを、詩としての言葉にしている。音声ガイドを聞きながら、自分なら、この動きを見ているときに「蛙」(かえる)と思うだろうか、自分なら「柏手」という言葉は出てこないが、ではこの両手を打ち合わせる動きはどう捉えるだろうか、などと考えた。

「ダンスの詩」は、文学形態として探求することもできるのではないだろうか。


■4. トーク:なぜ音で観るダンスなのか(40分)

田中氏:「3年目の今回は、生の舞台での体験に戻そうと思って、イヤホンではなく、スピーカーで、みんなで同じ音声を聞く形にした。正面性の問題もあって、目が見える人は実は、360度の空間を便宜的に2次元にして把握している。でも、目が見えない人は、360度の空間をそのまま、2次元に還元することなく捉えている。だから、今回は四方から見る形式にした。音声ガイドを聞いた全盲の人が、『舞台に捩子さんと一緒に立っているつもりで、音声を聞いていました』と言っていたことから、その形式にした」

「また、今回は、研究会のような複数性ではなく、1人の作家性を採用して、テキストの執筆を依頼することにした。詩人か小説家で、女性で、若くて、さまざまな分野とコラボレーションしている人、というのを基準に、いろんな詩集を読んで、候補者を絞って、詩人の大崎清夏氏にお願いした。今回は、ダンスを音声で説明するのではなく、ダンスと一体化する音声ガイドを作りたかった。音声と一緒になって丸ごとダンスになる、というふうにしたかった。テキストを読み上げるのは、ダンサーの山下残氏にお願いした」

テキストを書いた詩人の大崎清夏氏:「詩の言葉にも音楽にもリズムがある。沈黙や余白が大事。動きの詩であるダンスを、言葉の詩に翻訳する。だから簡単かと思ったら、やってみるととても難しかった」

「最初、『男が1人跳ねている』と書いたが、『からだが1つ跳ねている』に変更した。全盲のモニターの方が捩子氏のダンスについて、『人間でない何かがうごめいている感じで、怖い』と話していたのを聞いて、その感じを出そうと思ったので」

「右脳と左脳の行き来をできるだけ少なくすることを意識して、テキストを書いた。行き来が多いと、ダンスを楽しめなくなるので、タイムラグをなくしたかった」

捩子氏:「3年目は、振付よりも体を伝えるようにした。自分は、ダンスを見るとき、ダンサーの体がどうなっているのかを、自分の体で感じている」

「タッチツアーでは目隠し鬼をした。視覚イメージに頼らずに、人の気配や音などで空間や人を把握する、感じ取る。その場で起こっていることを感じ取る」

「1年目と2年目は踊るときに音を立てるのを封印していたが、3年目は音をあえて出して踊った」

細馬氏:「踊る捩子氏の足音が、音だけでなく、振動でも伝わる。『からだの、65パーセントは、』で声が中断する。目で読むときはパッと全体が見えるが、音で聞くと、沈黙の間にいろいろ考える。声で『柏手』と聞こえて、捩子氏がパンッと手を打つ。その後、沈黙になる。声が、のちの動きやその後の沈黙に持続的に影響する」

大崎氏:「捩子氏の体から音がするときには、言葉は言わないようにした」

テキストを読み上げたダンサーの山下残氏:「踊っている捩子氏に『意地が悪い』と思われるように読むことを目指した。テキストを読み上げる上で、今回のダンスの振付を捩子氏と一緒に踊ってみたことが生きた」

捩子氏:「『柏手』のところは、私が山下残氏の声を待っているような、山下氏が私の動きを待っているような、そんな感じ」

細馬氏:「今回の公演は抽象度が上がった。2回目に暗闇でダンスを鑑賞するとき、音声ガイドを聞きながら、1回目に視覚でダンスを見たときのイメージを再現しようとは思わなかった。音声ガイドは音として常にニュートラルだが、ダンサーである捩子氏の足音などには、観客がどこにいるかによって、観客にとって距離感が生じる。客席ではなく、ダンサーを囲んで四方から見たことによって、自分とは違う体験をしている別の体を強く意識する」


■5. 感想共有、Q&A(20分)

捩子氏:「3年目になって、このダンスは、ぼーっとした時間を過ごすダンスだったんだと分かった」

「このプロジェクトに参加してくれた金子氏が、パントマイムをやっていて、自分の手で壁を表現したときに、失明してから初めて『自分の手が見えた』と言っていたのが、印象に残っている」

金子氏:「今回の公演の感想は、客席から下りて近くで見るなら、音声ガイドは邪魔と感じた。テキストの内容には、もっと捩子氏らしさが欲しかった」

大崎氏:「テキストを書くに当たって、2年目の岡田氏が書いたテキストのリズム感の良さ、気持ち良さを参考にした」

捩子氏:「『声は発した人に返ってくる』という言葉を聞く機会があった。3年目の今回は、テキストの声を聞きながら踊ったのが、前年までとは違う」

田中氏:「1年目に能楽師の方から『能は100回見ないと分からない』という言葉を聞いた。このプロジェクトのダンスも、暗闇で鑑賞することよりも、回数を重ねることに意味があると思える」

細馬氏:「何度も見るとダンスの振りは覚えるので、そこに思考を使わなくてよくなり、他のところに感覚が広げられるようになる」


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日時:2019年8月31日(土)14:00〜17:00

会場:KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ

定員:120名(先着順・要事前予約)

参加費:無料

ダンス出演:捩子ぴじん(ダンサー)

テキスト:大崎清夏(詩人)

朗読:山下残(ダンサー)

トーク出演:捩子ぴじん、大崎清夏、細馬宏通(早稲田大学文学学術院文化構想学部教授)、田中みゆき(キュレーター、本プロジェクト企画)

モデレーター:萩原雄太(演出家、かもめマシーン主宰)

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▼捩子ぴじん氏のTwitter↓

▼大崎清夏氏のウェブサイト↓

▼山下残氏のウェブサイト↓