ストップギャップ ダンスカンパニー「エノーマスルーム」世田谷パブリックシアター

障がいの有無や出身地、出身階級などにとらわれず、出演者全員が個性あるパフォーマーとして参加するイギリス(イングランド)の「ストップギャップ ダンスカンパニー」の初来日公演。

「ストップギャップ ダンスカンパニー」は、「インクルーシヴダンス」を代表するカンパニーの一つ。「インクルーシヴ(inclusive)」は「包括的な、包含的な」の意で、exclusive(排他的な)の反対だ。

タイトルの「エノーマスルーム」は「巨大な部屋」の意。デイヴとその娘サムは、妻・母のジャッキーが急死し、途方もなく空っぽになってしまったように感じられる家に取り残された。デイヴはつまらなそうにテレビを眺め、娘はどこかふてくされていて、ボーイフレンドを部屋に連れ込む。部屋には、亡霊のようにさまようジャッキーがいるが、妻としての彼女と、母としての彼女の2人になっている。部屋の中には、デイヴをからかったりする、道化のような(シェイクスピアの『夏の夜の夢』の妖精パックや『十二夜』の道化や『リア王』の道化のような)男(役名はチョック)もいる。

デイヴが妻の死をせりふで語り、イギリスのよく知られた歌を背景にデイヴとジャッキーの出会いが語られ踊られる。

デイヴとジャッキー、娘サムとそのボーイフレンドのトムの2組のカップルの性的な場面が、匂わせる程度にとどめてはいるがなかなかセクシーだった。

前半は舞台セットとしてリビングルームとその上の階(?)の部屋があったが、中盤で、その舞台セットにダンサーが絡む中、黒子のようなスタッフが現れて、ゆっくりと部屋を解体して持ち去っていった。

後半では、広くなった空間を使って、どこか幻想的な踊りが出演者全員によって繰り広げられる。生きている者も死んでいる者もどちらでもない者も、皆一緒になって踊っている。

最後は、道化のようなチョックが見守る中、デイヴとサムが寄り添い、他の人たちは去ってしまった。もうジャッキーはいないが、デイヴとサムはあの家で支え合いながら生きていけるだろう。

唯一、言葉のせりふがあるデイヴ役のデーヴィッドさんは、声がとてもすてき。俳優としても活躍しているらしい。アフタートークで話した英語の発音を聞いたところでは、中流以上の階級出身だろうか。両脚(の大部分)がないが、肩と腕が大きくてたくましく、手もかなり大きく見える。その手が雄弁なダンスを踊るのだ。

サム役のハンナさんは、目つきがとても魅力的。背が小さく肉付きのいい身体をうまく生かして踊っている。アフタートークで話した様子から知的障がいがあるのかなと思ったが、やはり公演ウェブサイトにそう書いてあった。サムとして踊るときもアフタートークで話すときも、自信にあふれた堂々とした姿が清々しく、かっこいい。

ジャッキー役のエイミーさんとエリアさんは、体格がよく似ている。実体と影のように一体となって動いていたが、次第に別々に家族と関わり始める。思い出の中のデイヴとの出会いの場面では、2人並んで両脚を思う存分使ってステップを踏む。デイヴとの対比に見えて、そんなこと思っていいのだろうか?と思ってしまったが、デイヴとジャッキーは、互いの違いにもきっと引かれ合ったのではないだろうか。

デイヴは出演中は車いすに乗っていなかったので、ほぼ床に近いところ、低いところにいる。そうすると、ジャッキーやサムが彼と一緒に踊るとき、必然的に同じ高さになろうとして、フロアの動きが多くなる。その際、デイヴ(役のデーヴィッドさん)が得意とする腕を大きく使った動きや素早い回転などが振付で多用され、不思議なリズムを生み出していた。

サムのボーイフレンド、トム役は、おそらく本人のクリスチャンさんもそうなのだろうか、ジャージを着た、労働者階級(ワーキングクラス)の若者だ。サムもジャージ。労働者階級はジャージを着てテレビを見ているという、この部分はややステレオタイプ的か。もっとも、本人たちがその姿を「らしい」と思うのならいいのだろう。

チョック役のナデンさんはカンボジア出身。捉え切れない役どころで、他の役の人たちには見えない存在なのかもしれない。生者と死者をつなぐもの?案外、キリスト教で言えば天使みたいな存在なのかもしれない。両脚が細くて小さく、おそらく麻痺しているのだと思うが、その脚を容赦なく手で放り出したりする。思いも寄らない方向に曲がる脚は、私にはあり得ない体勢を可能にする。何が「あり得る」かは、一人一人違うという当たり前のことを実感する。体に限らず。

ダンスパフォーマンスは、他人の体を凝視してよいというお墨付きがもらえる、いわば奇妙な「出し物」だ。日常生活で人の体をあからさまにじろじろ見たら、失礼、無礼、侮辱、場合によってはセクハラだ。しかし、ダンスを見るときは人の体をじっくり見ることが許される。

身体障害がある人や、表情から知的障害と推測できる人などのことは特に、「じろじろ見てはいけない」と無意識のうちに自分にブレーキをかけていないだろうか?しかし、なぜ見てはいけないのだろう?私と同じように、そこに存在しているのに。障がいや人種や服装などにかかわらず、誰のことも、理由なく嫌悪や侮蔑の視線で眺めるべきではない。でも、単に「あ、違うな」と思って視線をやるのはいいはずで、その代わり相手も同じように私を「あ、違うな」という目で見てもいいはずだ。違いに気付いて目をやったということは、関心を持ったということ。そこから関わり合いが生まれて、「あ、ここは同じだな」と思うところが出てくるかもしれない。これは、どんな人との出会いでもきっと同じこと。

出演者たちが互いに温かい感情を抱き合っていると感じられるパフォーマンスなのが素晴らしかった。もっと冒険のある振付なのかと予測していたのだが、「突拍子もないこと」を求めてしまっていたのかもしれない。でも、終演後、思い返してみると、この気負わない、「普通」のダンスが、心の大切なところにしまわれていることに気付いた。死がテーマなのに、明るさがあり、家族や愛の大切さという、普通だけどかけがえのないメッセージがじんわりと胸にしみる作品だ。

アフタートークには、出演者たちとカンパニーの芸術監督、カンパニーのプロデューサーなどが登場。公演プログラムに文章を書いている愛知大学文学部教授の吉野さつきさん、世田谷パブリックシアターの担当者も登壇して、30分あまり話をした。

カンパニーメンバーが身近な人を失う経験をしたことから、誰もが体験するloss(喪失)とgrief(悲しみ)をテーマとしたのだそうだ。互いに体験を語り、それも作品に生かしていった。ダンサーたちのインプロヴィゼーションを数週間にわたって行い、それを録画したものから後半のダンスは作ったのだそう。

世田谷パブリックシアターは初めて訪れたが、ロビーに入ると、やや狭いがヨーロッパの劇場風で驚いた。劇場の中もヨーロッパ調でしゃれている。


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2019年3月8日、3月9日

【アーティスティックディレクション】ルーシー・ベネット

【出演】デーヴィッド・トゥール(デイヴ役)、ハンナ・サンプソン(サム[デイヴの娘]役)、エイミー・バトラー(ジャッキー[サムの母]役)、エリア・ロペス(ジャッキー[デイヴの妻]役)、クリスチャン・ブリンクロウ(トム[サムの友人]役)、ナデン・ポアン(チョック役)

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