下村唯 etc.「乙戯社PRESENTS 日本現代舞踊研究発表会『言葉にできない。』」芸能花伝舎、新宿中央公園

「ダンスクリエーター」と名乗るダンサー・振付家(と通常は呼ばれる)の下村唯氏が、脚本家のいちかわとも氏に、「俳優を出演者としてダンスを作ってほしい」と依頼され、実現した企画。出演者は、俳優の田中零大氏と立花みず季氏の2人。

下村氏は「ダンスコミュニケーション作品」を制作していて、「横浜ダンスコレクション2019」で「亡命入門:夢ノ国」という作品により「審査員賞」と「ポロサス寄付基金Camping 2019賞」を受賞した。


▼「横浜ダンスコレクション2019」での「亡命入門:夢ノ国」について↓

▼いちかわとも氏の企画で下村唯氏も出演した「虹のかけら芸術祭 ダンス公演」について↓

今回の作品には、「攻撃性と対話にまつわるダンス作品」という説明が付いている。また、演劇とダンスの違いは何か、俳優とダンサーの違いは何か、俳優が踊るとはどういうことか、俳優にしかできないダンスとは何か、そもそもダンスとは何か、というテーマ(研究課題)が設定されている。

研究発表会の流れとしては、まず芸能花伝舎に集合し、下村氏から、ダンスの(西洋の)歴史を踏まえたコンテンポラリーダンスの説明や、自身はダンスで社会との関わりを探っているということ、今回の発表会(公演)までに5回の稽古を行った(稽古の回数が多くなり過ぎると「ダンサー」に近づいてしまうかもしれないので、この回数にした)ということの説明があり、今回のダンス作品のどこが俳優ならではで、何を伝えたいのか、ということを念頭に置きながら見てください、というお話があった。それから、歩いて数分の新宿中央公園へ移動。公園でダンス作品の発表があった。その後は、また歩いて芸能花伝舎に戻り、観客が感想を話したり、下村氏が作品解説をしたり、出演者が考えを述べたり、いちかわ氏が質問をしたり所感を述べたりした。

公園内では、どこで踊るのがいいかを選定し、2カ所で2回公演が行われた。公園内は広く、日が沈んでも暑く(2回目の公演のときには涼しい夜風も感じたが)、高い木がたくさんあって、セミが騒がしかった。公演から見える都庁は、ビル全体が鮮やかにライトアップされていた。ビル群に囲まれた公園はまるで異空間で、公園内で夏祭りの盆踊りが行われていたこともあり、トリップ感があった。

作品は、1回目は橋の上で、2回目は芝生にある電灯の下で行われた。観客から少し離れたところに立った2人が向き合い、顔を見つめ合いながら、じりじりと互いの距離感を計り合いつつ、観客の方へ近づいてくる。それから、互いに手で相手の頭を下へ押したりした後、順番に相手を言葉で罵倒する。容姿のこと、演劇への向き合い方、生活の仕方についてなど(容姿については、「いや、2人ともきれいですから!」と、内心ツッコミを入れながら聞いた)。1人が話し終わると、それを聞いていた人が相手の胸を押して少し移動する。そして、今度はさっき聞いていた人が話し出す。このやりとりが何往復かした後、2人はほぼユニゾンで短い間踊るが、体を丸めてジャンプするところでは、2人のジャンプのタイミングはあえてずれていて、交互になっている。最後に、2人は黙ってハグする。

1回目では、冒頭の向き合っているところや後半で踊るところに音楽が使われたが、2回目では、後半にのみ音楽が入った。1回目と2回目とでは、悪口を言い合う場面のせりふは異なっていて、1回目の言葉の方が「ありがち」な感じで、2回目の方が「ネタ」探しに苦労しているような、間や言いよどみがあった(それもおそらく演技だろうか)。また、1回目より2回目の方が、演者と観客の距離を近くしていた。

最初に互いを見て相手がどういう人間かを探り、次に言葉では互いに悪く言うが、最後にやっぱりそれでも本当は嫌いなわけではないのだ、と抱きしめ合う。攻撃・反目と和解、というよりは、言葉とは裏腹な気持ちと身体、というテーマが見え、伝えたいことは明白であるように思った。最後のハグは、「くさい」とも言えるが、そのくささがとてもいいと思う(2回目では、パフォーマーたちと距離が近かったせいか、ハグの仕方が、背が女性より高い男性が女性の上から腕を回して抱きしめるという構図が目に留まって、たぶん「自然と」そうなってしまうものなのだろうが、普遍的な人間と人間の関係を扱っていると思うので、もっとそういう固定観念から自由になった抱き合い方があってもいいのではないかとも少し思ったが)。

しかし、観客を交えたアフタートーク(のようなもの)で、下村氏が、ヘイトスピーチやインターネット上での陰湿なたたきに代表される不寛容な社会を表現した、とおっしゃっているのを聞き、言われてみればその通りなのだろうが、「亡命入門:夢ノ国」とは違って、今回の作品にはそのような「社会」への広がりをあまり感じず、「個と個」のぶつかり合いと調和を思ったのはなぜだろうかと考えた。

下村氏が、制作の過程で、相手を悪く言うワークを行い、困ったことに、いいのか悪いのか、その罵詈雑言も「コミュニケーション」になってしまっていた、とおっしゃるのを聞いて、その辺りにヒントがあるのではないかと思った。いわゆるヘイトスピーチは、特定の個人ではなく、集団や属性に対して攻撃するものだ。攻撃の矛先が特定の個人に向かうこともあるが、その人だから攻撃するのではなく、その人の属性や所属ゆえに攻撃するという性質は同じだ。また、インターネット上の中傷は、相手のことを調べて一番効き目がありそうなところを突くということはあるだろうが、直接知っている相手ではなく、ネット上の架空の者同士のやりとりという意識が、攻撃する側にはあるのではないだろうか。だから、相手が傷つくことを想像できないし、自分がその攻撃によって逮捕されることがあり得るとも想像できない。最近は学校のクラスの子などをネット上のSNSなどでいじめるということも起こってしまっているようだが、これは、直接知っている人を仮想空間で攻撃していることになる。そこには、相手の生身の体も、自分の生身の体も、ない。相手と自分との関係性は、断たれている。もしくは、攻撃する側とされる側という関係しか成り立っていない。

ところが、今回の作品で行われたというワークは、実際に知っている人間同士が、体と体で向き合って、目の前にいる固有の相手に当てはまる言葉を投げ付けるものだ。そのためには、相手をよく知る必要がある。その過程は、「信頼関係を築く」過程と、実は共通しているのではないだろうか。直接会って、罵倒であっても話すということには、相手に対する多大なエネルギーを必要とする。相手と関係を築けていなければ、相手を深くえぐる言葉は生み出せない。

だが、そうすると、このことこそが、この作品の罵倒の場面の狙いだったことが見えてくる。つまり、ひどいことを言われたら、ネット上であっても、直接言われるのと同じくらい、もしくはそれ以上に傷つくということ。ただし、言う側にとっては、直接言うのは大変だが、ネット上ではずっと簡単にできてしまう場合があること。

観客の感想などで出た、「相手への悪い言葉は、実は自分に言っている」という点も非常に大事だと思う。よく言われることだが、他者や他者への自分の見方は、自分の鏡だ。例えば、相手に「役立たず」と言っている人は、自分こそが役立たずだと思っているか、役立たずになってしまうこと、または、役立たずと見なされることを恐れているのではないか。誰かへの悪口は、自分の中の何らかの不満のはけ口として出てきているだけではないのか。

また、相手を突く固有な罵倒の言葉が、実は、他の多くの誰かにも当てはまるだろうと思われるのも興味深い。誰かの体を触ったら、それは他の誰でもなくその人を触っていることになるが、誰かに向けて発した言葉は、他の誰かに向けられる言葉でもあるかもしれない。下村氏は、ダンスのシーンは抽象化して表現したとおっしゃっていて、言葉がメインではないダンスや美術にはそういう性質があるわけだが、言葉には、いろんなことを一つの言葉で表してしまう乱暴さがある(そうすることで、人と人は言葉を通して伝え合い、言葉を使って思考できるようになった、という話をどこかで読んだことがある気がする)。

下村氏の、「演劇は虚構(うそ)によって真実を描き、ダンスは事実によって真実を描く」という意見(今回の作品を制作するに当たって出した一つの見方)は、どうだろう?と思った。演劇も、虚構だが、俳優自身の経験やリサーチから演技は引き出していくものだろうし(少なくともそういうメソッドもあったかと思う)、今回の作品で、悪く言い合う場面は、配役による演技ではなく、実際の本人たちとして言葉にしてもらった、とおっしゃっていたが、観客にとっては、おそらく言っている内容はほぼ本当のことなのかなとは思っても、言っている人が本当にそう思っているとはあまり思わないだろう。

ただ、「ダンスは事実」の「事実」は「体」と下村氏がおっしゃっていて、「ダンスは体」というのは分かる。いちかわ氏は、「演劇=言葉とダンス=体」という言い方をなさっていた。演劇も体は大いに使うし重要なのだが、やはり言葉が優位にある気はする。一方、ダンスでは、当然ながら体がメインになる。あるパフォーマンスをダンスと見るか演劇と見るかは、体が優位か言葉が優位かということがあるかもしれない。踊っていても、言葉がストーリーや全体の構成を形作っていれば演劇という気がするし、言葉を発していても、実は言葉ではなく体でコミュニケーションしていると思えればダンスに見える(そして、ディミトリス・パパイオアヌーの「THE GREAT TAMER」のように、身体自体が主役であるようには見えず、身体へのリスペクトもあまり感じられず、むしろ視覚的な「面白さ」のために身体を「利用している」ように見える作品は、ヴィジュアル・アーツ、美術に見えたりする)。


▼ディミトリス・パパイオアヌー「The Great Tamer/ザ・グレート・テイマー」について↓

「言葉」って疲れるなあと思う。最近はダンスばかり見ているので、たまに演劇を見ると、言葉が多過ぎて疲れてしまう(笑)。言葉は、頭で考えるという狭義の意味での思考と結び付いているので、言葉にたくさん触れると、考え過ぎて疲れてしまうのかもしれない。いちかわ氏が、「言葉はうそをつく。でも体はうそをつかない」とおっしゃっていて、これもよく言われることではあるのだが、下村氏が、「褒め言葉は相手にあまり響かないのに、批判は相手に真っすぐ刺さる」とおっしゃっていたように、言葉はうそをつくだけでなく鋭い毒を含むこともできてしまう。もちろん、体は他の体を殺すこともできてしまい、それは究極の攻撃になってしまうわけだが、まともな法律のある戦時下ではない社会においては、それは犯罪になる。ところが、言葉による攻撃は、時にそれが人を死に追いやることがあっても、犯罪として立証することは困難な場合が多いだろう。ましてや、相手の心を殺していたとしても、ほぼ全ての場合において無罪放免となってしまう。体の場合、愛情を持った者同士がハグをするのと、憎む相手に刃物を刺すのとは、見るからに異なる行為だ。でも言葉は、優しい言葉も悪意に満ちた言葉も、言葉を使っているという行為としては同じだ。もちろん、体で行う握手も、好意を持っているか敵意を持っているかは場合によるし、表面上は優しい言葉に敵意が潜んでいることもあり、そこから演劇なども生まれてくるわけだが。

余談だが、言葉を扱う演劇人や作家の中にものすごく性悪な人がいるのはあり得るが、身体で表現するダンサーがものすごく性悪ということは少ないのではないか、というのは、私の体験からくる偏見だとは思うが(笑)。というより、体のことを熟知し、体でコミュニケーションが取れるダンサーがもし悪い人だったら、その能力、スキルを悪用できてしまうので、すごく怖いかもしれない。言葉の悪用は悪用と(たとえ手遅れになってからだとしても)気付きやすいが、体を操られたら(?!)、操られたことにさえ気付かないかもしれない(!)


▼直接は関係ないが、「不和」「敵対」ではなく「理解」「対話」を、というテーマの、「あいちトリエンナーレ2019」の展示「表現の不自由展・その後」に関する記事。「社会関与型の芸術 Socially Engaged Art」の視点から、批評家の藤田直哉氏が論じている。

「ダンスを通じて、社会を良くしたい」と語っていた下村唯氏(いちからとも氏も「演劇で」と同じことをおしゃっていた)のクリエーションへの姿勢ともつながる話だと思う。

引用:

「ムフ、ラクラウが注目する「敵対性」は、理屈や利害の対立ではなく、アイデンティティへの脅威を軸にして生じる。だから、理性的な議論では解決が困難である。今のSNSを見ていると、現状はそうだな、と説得力を感じないだろうか」

「もはや「敵対」だけではダメで、その先が必要であり、そこに踏み込んでほしかった」

「一般論として、日本の「空気」は意見を言いにくくさせていると思う。言うべきことをはっきり言うようになったほうが生きやすくなるし、生産性も創造性も上がるだろうと思う。しかし、だからといって「敵対」「炎上」を煽り続けるだけでは、対立と分断がより深まるだけではないか。「不和」や「敵対」を前提としながらも、「理解」や「対話」に向かう、そういう不可能かもしれない未来を、アーティストたちには創造して欲しい」


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2019年8月17日(土)18:10~(所要時間は、予定は2時間だったが、実際は約3時間半)

予約不要、無料カンパ制


出演:田中零大、立花みず季(演劇集団LGBTI東京)

制作:下村唯(SICKHOUSE)、いちかわとも(乙戯社)

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