19世紀フランスで初演され、「白のバレエ」と呼ばれるバレエ作品「ジゼル」。アクラム・カーン(演出・振付)は、ストーリーはほぼそのままに、時代を現代に近づけ、演劇やミュージカルのような大胆な音楽と照明を用い、まったく異なる印象を残す新しいダンスを創出した。
残念なことに筆者は冒頭の10分程度を見逃したが、映画館に入ったときには、大音響の中、群舞が繰り広げられていた。オリジナルで村娘とされているジゼルは、本作品の設定では移民の労働者で、衣類工場で働いている。彼女が恋する相手アルブレヒトは、本作品では貴族ではなく地主階級に属する金持ちだ。
労働者たちの群舞は、どんどん激しくなっていき、上半身を大きく下に曲げたまま疾走する姿は、人間から動物に変容したように見えた。牛馬のように酷使されているということを表しているのだろうか。移民コミュニティーという設定に合うかのように、ダンサーの中にはアジア系、黒人、中南米出身と思われるダンサーたちがいる(ロイヤル・バレエの公演では、何度か映像で見た限りは、アジア系はいるが黒人のダンサーはあまり見掛けなかった気がする)。アクラム・カーン自身が、バングラデシュにルーツを持つイギリスの振付家だそうだ。
ジゼルに思いを寄せるヒラリオンが、アルブレヒトを疎ましく思い、地主たちを連れてくる。一緒に来た気取った女性バチルドは、アルブレヒトの婚約者。彼女が着ているドレスが妙に凝ったデザインなのは、その服を作ったジゼルたちとの格差を強調するためのようだ。バチルドは動き回る労働者たちとは対照的に、踊らず、淑女らしく悠然と歩くだけだ。
オリジナルと大きく違う設定の一つは、ジゼルが妊娠しているとほのめかされている点だろう。彼女は死んで精霊ウィリーとなるが、ウィリーは結婚前に処女のまま死んだ娘がなる精霊だ。しかし、本作品のジゼルはアルブレヒトの前などでしきりと自分の腹に手で触れ、子を宿したことを告げているように見える。
それなのに、地主たちから決断を迫られたアルブレヒトは、ジゼルを地面に放り出し、バチルドを選んでしまうのだ。直後にジゼルが正気を失うところはオリジナルと同じだが、もう一つの大きな相違点は、ジゼルがそのまま弱って死んでしまうのではなく、地主たちに命じられた労働者たちがジゼルを殺してしまうという演出だ。
クラシックバレエやロマンチックバレエの古典では、群舞は楽しい場面だろうと悲しい場面だろうと、「美しい装飾品」のように見える(それが大きな感動を生むことももちろんある)。しかし本作品では、群舞のダンサーも一人一人が生身として生きている。彼らが自分たちの身を守るためにジゼルを取り囲むと彼女は見えなくなり、彼らが去るとジゼルはもう生きてはいない。こういったクライマックス、緊張感の演出が巧みだ。集団に囲まれて個人が死ぬという構図は、ここでは女性であるジゼルが男性たち(だったと思う)に囲まれるが、のちには男性であるヒラリオンが女性の霊であるウィリーたちに囲まれ殺される場面で反復される。本作品のウィリーたちによる男への復讐の遂げ方は、棒で突き刺すという残虐なものだ。
演出では、ダンサーの掛け声や小道具(例えば棒)を舞台に打ち付ける音などを使うのも、古典バレエではほとんど見られない特徴だ。舞台の奥の壁が回転し、労働者と地主、生と死など2つの世界の境界を表すのも面白い。
ジゼルが殺されて第1幕が終わり、10分間の休憩。第2幕では、ジゼルが精霊ウィリーとなって現れる。本作品では、ウィリーは不当に搾取されて死んだ労働者たちの霊という設定だそうだ(それでも、ウィリーたちは全員女性だった)。
ウィリーの女王ミルタを踊るダンサーは細身で長いブロンドの髪で青白く、不気味さを漂わせている。注目したいのは、ミルタはトウシューズを履いていること。ポワント(爪先)で立つと、背が高くなり、威厳が出る。また、ポワントは古典バレエで妖精のような女性のはかなさや軽やかさを表すために発達したテクニックだ。ジゼルは第1幕ではトウシューズを履いていなかったが、第2幕でウィリーとなってからは履いて登場。彼女がポワントで立つと、もうこの世の者ではなくなってしまったことが物理的に実感できるようだ。ポワントが象徴するのは、人間離れした技、浮遊感、手の届かないもの、だからだ。
本作品では、バレエっぽいテクニックや仕草も見られるが、モダンやコンテンポラリーの動きが多く取り入れられている。深い愛が、2人の体が溶け合うような、少しコンタクトっぽい動きによって表され、悩みや迷いや苦しみなどの心のねじれがそのまま体のねじれとなって現れるのは、演劇的なダンスといっていいのだろうか。
ミルタやウィリーとなったジゼルが踊る場面で流れていたクラシック音楽っぽい旋律は、オリジナルの「ジゼル」からの曲だろうか。伝統的なバレエではおそらく「やり過ぎ、下品」と見なされかねない、ジゼルの狂気の踊り。「ジゼル」のストーリーに感情移入できない現代人は筆者だけではないと思うが、アクラム・カーン版のジゼルを見て初めて本当に「ジゼルはなんてかわいそうなんだろう」と思った気がする。「ジゼル」以外のダンスを含めても、あのような悲しく激しい狂気のダンスを見られるのはまれだ。
しかし、さらなる驚きはこの後にもたらされた。著名なダンサー、タマラ・ロホ(ENB芸術監督でもある)が踊るジゼルは、「かわいそう」だけでは終わらない。後悔しているであろうアルブレヒトがミルタとジゼルの前に現れ、ミルタからアルブレヒトを殺すよう促されたジゼル。彼女がアルブレヒトを許し、おそらくもう人間のようには目が見えないのだろうか、それでもなんとかアルブレヒトに触れようとする動き、体温のない冷たい存在になってしまったのに、アルブレヒトを気持ちの上では温かく包み込んでいると思われる優しさと包容力、ミルタに対抗しアルブレヒトを生かす強さ。こんなにも強く深い愛が存在するのか、と胸を打たれる。
ここまでですでに涙を誘われたが、最も泣いてしまったのはラストシーンだった。ミルタとジゼルが去り、独り現実の世界に戻ってきたアルブレヒトが、打ちひしがれ、ジゼルが消えていってしまった壁に身をもたせ掛ける。そして、彼の片手がふっと持ち上がる。下ろしたその手を見つめ、抱きしめるアルブレヒト。どのような意図があったのかは知らないが、筆者には、見えない存在となってアルブレヒトの近くにいるジゼルが、そのことを彼に知らせるために彼の手に触れたように思えた。
もしかしたら、アルブレヒトがジゼルに手を握られたという幻想を抱いただけかもしれない。しかし、それが単なる妄想だと片付けることは本当にできるのだろうか?普段、私たちは自分で自分の手を挙げていると思っている。でも本当は、もうここにはいない大切な誰かが私たちの手に触れる瞬間があるのかもしれない。ダンスは「踊る」ものなのか、「踊らされる」ものなのか、といった度々問われる問いを思い起こし、「踊らされてみたい」という願望を覚えた。
この「ジゼル」に反発を覚える人ももしかしたらいるかもしれない。確かに、挑戦的であり、確信犯的な「狙った」感もあるという印象も受ける。それでも、「ジゼル」でも「バレエ」でも「ダンス」でも「演劇」でも、名は何でもいい、筆者はまた、今度は生の舞台で本作品を見たいと思う。全てのダンサーが精魂込めて踊っている体を、強い愛を、広い許しの心を見たいと思う。そして、それらがこの世界にももっと見られるようになったらと願う。
※下の画像は上記のCutlure-ville, LLCのサイトより。
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